2018年08月11日

【MAU】美術論【第2課題】

美術論 第2課題
「日本美術における、芸術と社会とのかかわりについて考察しなさい。できるだけテーマを絞り、具体的な記述でまとめること。」

レポートの参考にどうぞ。
全体的・部分的問わず、剽盗・転載はご遠慮ください。


テーマ「戦時中の国と美術」

 R.G.コリングウッドの「芸術の原理」によると、芸術は「魔術芸術」と「娯楽芸術」に分けることができるという。前者は実際の政治や商業など、なんらかの宣伝・思想の誘導効果を狙うある種のプロパガンダ的な芸術のことを指し、後者は具体的な狙いのない、見る人間の感情を高揚させることを目的とした芸術のことを指す。今回のテーマ「芸術と社会とのかかわり」を考えるにあたり、社会と芸術がより密接に展開した「魔術芸術」が多く行われていた時代、1931年の満州事変から1945年の太平洋戦争の終結に至るまでの15年戦争中の日本の美術を取り上げ、美術と社会のあり方について考察する。

 戦時中の美術は国の支配をうけていた美術である。開戦後まもなく日本では勤労動員が行われ、画家も例外なく徴用された。国民の戦意高揚・国民精神の発揚のために美術は大きな役割を果たすと考えられ、画家に要請したり、従軍画家として国民の愛国心を高揚させる作品・戦争の場面を伝える作品を多く制作させた。多くの画家が自ら進んで、または生活のために仕方なく戦意高揚のための戦争画(戦争を題材として描かれた戦争記録絵画。戦闘場面や戦士の出征や凱旋、戦時下の市民生活など戦争の諸場面が描かれた)を描いた。開戦初期の頃はそれほど多くの美術家が参加していた訳ではなかったが、戦争が激化して、総力戦となった頃には、日本の美術界の主流は戦争画になっていた。戦争画を積極的に描いた画家を突き動かしていたのは「日本の勝利のために役立ちたい」という熱烈な愛国精神があり、また、あまり気が進まないけれど描いた人の場合は、当時の社会の雰囲気が強く影響していた点があげられる。当時は、全国民が一丸となって戦争勝利のために努力し突き進むことが求められていた時代であるため、戦争に非協力な人は「非国民」として指弾された。今ではとても考えられないことだが、この当時、画家にとって必要不可欠な画材も配給制となり、日本美術及工芸統制協会という機関が、画材の配給権を独占し、画家たちの思想・表現傾向や業績をもとに画家たちを甲乙丙のランクに分け、画材の配給量を決めた。画家として暮らしてゆくために描きたくないものも描かざるを得なかった事実がある。戦争画の傑作としては藤田嗣治の「アッツ島玉砕」がある。驚くほど細密に、生生しく描き込まれており、尋常ではない意気込みを感じる。藤田は後世に残すべき戦争画の傑作を描こうという意欲にあふれていたという。南方画信にて「いい戦争画を後世に残してみたまへ。何億、何十億という人がこれを見るんだ。それだからこそ、我々としては尚更一所懸命に、真面目に仕事をしなけりやならないんだ」と語っている。しかし、「アッツ島玉砕」は観客の人気を集めた一方で、その真に迫るリアルな悲惨さのために戦意高揚には繋がらないという批判を受けた。しかし藤田は戦争の光景・実態をそのまま描くことを何より大切にした。
 戦争画を描かなかった画家たちもいた。取り上げるのは日本の敗色が濃くなった1943年に「新人画会」を結成した8人の画家たちで、靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本竣介である。彼らは、言論や表現活動への制限が日ごとに厳しさを増した戦時下にあっても、それぞれ「自分の芸術」を追求した。芸術のための芸術「娯楽芸術」である。戦争画に手を染めなかったのも、メンバーの多くは明確な反戦の意思を持っていたからではなく、むしろ、「自分が描きたい絵を描く」という画家としての信念に忠実だったからというのが真相のようだ。
 戦後、多くの戦争画がアメリカ軍に没収された。それらが美的価値を備えた絵画なら、占領軍の基本方針に基づき文化財として保護しなければならないが、逆に旧体制の軍国主義プロパガンダにすぎないのであれば、没収した有害な作品は廃棄する必要があるという事情である。多くの戦争画を描いた藤田をはじめ、美術界においての戦争責任を負うべき者が考えられた。
 当時の戦争画が国民の心を誘導し、洗脳するツールとしての側面が強いことは認めざるを得ない。だが、ならば戦争画には美術的価値は無いのかというと、私はそうではないと思う。自ら進んで描いた人の作品ならば、それこそ自分の戦争への思い、自己の表現がそこにあるのであり、気が進まなかった人の作品だとしても、そこにその人自身の表現が存在すると思えるのだ。当時実際に戦争画を見た上島長健は「評論家の中には、戦争記録画をちっとも認めない人が多いようだが、私はその論に組みしかねる。(中略)記録画には真剣に取り組んでいたし、物事や人間の動的な姿をリアルに受け止めて描破することがなかった日本の絵画にとって、この記録画の季節は短くはあったが一つのエポックだったと思うのである。」と述べている。(*)

 戦時中、美術が政府のプロパガンダに利用された面があることは否定のできない事実である。自分の描きたい絵がもっと違う場所にあった者にとってはつらく恵まれない時代であったことも真実である。しかし、そんな時代にあっても画家たちは筆をとり、各々の個性を持って社会を表現したのである。

(*)「絵具と戦争 従軍画家たちと戦争画の軌跡」 溝口郁夫 国書刊行会 2011
「「戦争」が生んだ絵、奪った絵」 佐藤隆信 新潮社 2010 
「画家たちの「戦争」」 佐藤隆信 新潮社 2010
「芸術と戦争 従軍作家・画家たちの戦中と戦後」もりたなるお 産経新聞出版 2007


【オススメの参考図書】


絵具と戦争―従軍画家たちと戦争画の軌跡



「戦争」が生んだ絵、奪った絵 (とんぼの本)


何をテーマに書くかで必要な本が変わりますが、水乃と同じ戦争テーマならこちらの2冊の本がオススメです。




posted by 水乃みのる at 19:31| 美術論(ムサビ通信)

2018年08月10日

【MAU】美術論【第1課題】

美術論 第1課題
「やまと絵の定義の変遷についてまとめなさい。」

レポートの参考にどうぞ。
全体的・部分的問わず、剽盗・転載はご遠慮ください。


 やまと絵は日本絵画の概念の1つである。「やまと絵」「倭絵」「和絵」などとも表記される。平安時代に誕生し、今日の美術文化に大きな影響を与えているやまと絵の定義の変遷について、以下にまとめる。

 やまと絵が誕生したのは平安時代の中期であるとされる。奈良時代から平安初期にかけ、日本は遣唐使などの存在を通じて中国・唐の高度に進んだ文化を学び、手本としていた。美術文化においても同様で、唐の絵画を真似した「唐絵」が描かれた。(中国から舶載された唐の絵そのものを指す場合もある)だが、894年に遣唐使の中止を迎え、907年に唐が崩壊したことから、その影響力は弱くなり、10世紀頃には日本独自の国風文化が栄えるようになった。やまと絵は唐という手本・拠り所を失ったわが国が、自らの手で自らの日本オリジナルの風景、風俗、物語に取材した固有の美術文化を作り出したことが始まりである。以後、中国の事物を描くにしても今までのように中国画そのままの真似ではなく、例えば「史記」に出てくる孟嘗君の肖像や、「文選」や「白氏文集」の詩文を主題とした屏風絵など、本家本元の中国には見当たらない種類の唐絵が作られるようになった。
 やまと絵は唐絵(中国風絵画)に対する呼称である。中国の影響を受け、描かれた中国風絵画の「唐絵」と区別するため用いられた。やまと絵の定義は、時代によって意味・用法が異っている。平安時代から14世紀前後までは、画題についての概念であり、日本列島における故事・風景などを主題とした絵画のことであった。対立概念としての「唐絵」は唐(中国)の故事・風景などに主題をとったものである。つまり、この時のやまと絵はあくまで主題の分類を示す言葉で、その様式技法は関係がない。両者とも墨や岩絵具を主な画材とした。
 初期のやまと絵は屏風や障子など画面の大きいものにかかれることが多かったが、12世紀頃より「源氏物語絵巻」をはじめとする絵巻物にその中心が移っていく。絵巻物は「絵因果経」などの絵入り経巻や中国から輸入した画巻に発想を得て作られた。「引き目鉤鼻」や「吹抜屋台」など独特な表現が生まれた。
 鎌倉時代以降、中国(栄・元)から新たに水墨画がもたらされ、これらを「漢画」と呼び、やまと絵に代わり日本絵画の主流となった。主題の分類を示す言葉だったやまと絵は、14世紀以降、様式や流派までをも含む言葉へと変化していく。漢画は描く画題も中国由来のものが多く、豪壮で格式ばったところが武家に好まれた。狩野派を中心に室町時代以後の画壇を支配することとなる。狩野派は日本美術史上最大の派閥で、足利家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家と、権力者のお抱え絵師であり、実に400年もの間繁栄した。狩野派をはじめ、如拙・周文・雪舟など、宋元画の水墨技法を中心とした絵画様式の流れをくむ画家を漢画派と呼ぶ。
 一方、やまと絵の伝統は平安時代から延々と続いてきた穏健な土佐派によって保持された。王朝絵巻の伝統を引き継いでいるため、人物は引き目鉤鼻で描かれ、画題も「源氏物語」や「伊勢物語」といった平安文学を好んで描いた。主な支援者は公家である。この時代のやまと絵が唐時代の絵画を消化した第一段の日本画であるとすれば、漢画は次代の中国画に影響された第二段の日本画であるといえる。ただし、中世後半から近世初頭にかけては、技法の上での「やまと絵」と「漢画」の境界線はアバウトなものとなる。15世紀から16世紀に活躍した土佐光茂は中国宋代の技法を自在に操った(例として牧馬図屏風など)し、漢画派の代表ともいえる狩野派の画家たちも「やまと絵」の摂取を積極的に試みている。
 江戸時代になると、俵屋宗達がやまと絵の伝統を近世的な感覚で再興し、その流れは尾形光琳ら「琳派」の装飾画として華やかな結実を見せる。一方、時を同じくして明・清の中国絵画の影響をうけ、文人画や写生画の新たな漢画が発生し、ヨーロッパ絵画の導入を試みた洋風画(蘭画、紅毛画)も一部にひろまっている。外国絵画からの影響下に起こった第三段の日本絵画は、そのように洋の東西に分かれて複雑な様相を示した。
 明治維新後は日本の画壇に大変化が訪れる。1870年代にヨーロッパからもたらされた油彩画、すなわち西洋絵画との本格的な対応が明らかとなり、それまでのやまと絵、漢画、唐画などの流れをすべてひっくるめて、「日本画」としてくくり、対になる西洋風絵画という意味の「洋画」と明らかに区別することとなった。展覧会というコンテストに画家が参加する時代となり、いままで権力者に仕えていたグループは職を失い、個人で絵を描くようになる。明治20年には東京美術学校が開校し、従来の師と弟子という関係から、教師と学生という教育の関係に変化した。

一言にやまと絵と言ってもその意味は広く、時代によって定義は大きく変化する。しかしそこには「日本の情景を描くこと」という一貫のテーマがある。やまと絵には、その時々を生きる人たちの日本のリアルな光景が、見事に表現されている。

参考文献
「すぐわかる日本の絵画改訂版」守屋正彦 東京美術 2012
「知識ゼロからの日本絵画入門」安河内眞美 幻冬舎 2009
「日本の美術(やまと絵)」家永三郎 平凡社 1964
「別冊太陽 日本のこころ201 やまと絵 日本絵画の原点」湯原公浩 平凡社 2012
「増補新装 カラー版日本美術史」辻惟雄 美術出版局 2003
「日本の美・発見U やまと絵の譜」出光美術館 2009

posted by 水乃みのる at 12:23| 美術論(ムサビ通信)